今回のインタビューはプロスノーボーダー稲村樹を特集。幼少期から卓越したスキルで競技シーンを中心に活躍し、HYWODの若手枠として映像も残してきた。現在は自身の経験を活かし、ナショナルチームのコーチ、COWDAYやNEKOMA BIG AIRなど国内の主要大会のオーガナイザーを務めている。本インタビューは2部構成。前編は競技者としてのスノーボードを振り返ってもらい、後編では主に仕事について話してもらった。まずはたつきのスノーボードキャリアを振り返っていこう。
*HYWOD:関西・東海出身のライダーが中心のプロスノーボーダーチーム
雪がない愛知県から世界で活躍するスノーボーダーへ
出身は雪がない愛知県です。家族がスキーが好きで3歳からやっていました。7歳の頃にスノーボードに変えたいってお願いして、スノーボード人生が始まりました。自分がスノーボードに切り替えたのをきっかけに、家族全員がスキーからスノーボードに切り替えて、家族でよくダイナランドで滑っていました。その頃はファミリーシーズン券っていうのもあったんですよ。
*ファミリーシーズン券は23-24シーズンも販売されている
───ご両親もスキーからスノーボードに変えるってすごく思い切ったね笑
9歳のときにサロモンのキッズキャンプに参加しました。周りの同年代たちがめちゃくちゃ上手くて「こういう世界があるんだ」ってのを知って、自分のしょぼさが悔しくてそこでスイッチが入りましたね。
競技者として活躍するために
───スノーボードを初めてから2年くらいなのに、上手くなりたい、悔しいみたいな気持ちになるのはすごいね。そこからどんなスノーボード人生が始まるんだろう?
「上手くなるにはとにかく滑る回数だ」って他のキッズの親に言われていたので、家から近い場所にあったスノーヴァ羽島に通い続ける生活が始まりました。その頃は、ハーフパイプがキッズの大会のメインだったのもあり、併せてカムイ御坂もよく言ってましたね。気がついたら自然とスノーボードで飛ぶのが好きになってました。
───やっぱりスノーヴァ羽島の存在は大きかった?
めっちゃ大きかったです。多分あの施設がなかったらここまでは無理だったと思います。
───なくなっちゃって残念だよね。いわゆるプロ資格をとったのはいつくらいなの?
JSBAのプロ資格ですよね。当時、キッズは15歳以上っていう年齢制限があってスロープスタイルの大会に出場できなかったんですよ。だから、協会とは関係ない草大会というかイベントをメインに周りつつ、ハーフパイプのキッズクラスの大会に出てました。
*JSBA:日本スノーボード協会
───ということはJSBAでプロ資格を取ったのは15歳のとき?
そうですね。ただ言葉を選ばずに言うとJSBAのプロになったところでその先がないことは、分かってたので、プロになりたくて大会に出てたわけじゃなく実力を試したくて出場してました。そしたら、「気づいたらプロになってた」って感じです。「あなたはプロになりましたよ」って通知がきていました。
───なんて羨ましい。
周りの環境の大切さ
日本では、”プロ”といわれる資格を取得したのは、15歳ですけど、スポンサーが付き始めたのは12歳。そこから13歳の時にプロスノーボードチーム”HYWOD”に出会って、そこで日本の大会以上の世界を知りました。「BURTON US OPENっていう大会があるんだ」みたいな。13歳、14歳くらいの時は「世界中を旅しながら活躍できるスノーボーダーになりたいな」と思っていました。その後にJSBAのプロ資格とか公式戦のスロープスタイルに出れるようになりましたけど、あんまりそこが目標じゃなかったというか、自分を試す場所でしかなかったかなと思います。
───なるほど。すごい視座が高かったんやな。
周りの環境が良かったんですよ。上村好太朗君とか藤田一茂さんとかが小さい頃から一緒に滑ってくれたので、はじめから貪欲に上を見れたし、周りの目線が高かったから自分も目線が勝手に高くなったんだと思います。環境は何事においても大事だと思っています。
───サッカーの本田圭佑も近大の卒業講演のスピーチで同じこと言ってたよ。
競技者として感じた壁とセカンドキャリア
───世界を目指すみたいなところで幼少期からやってきて、たつきがそういう存在になれてると、当時おれは見てたんやけど、実際そのあたりは自分が描いていた姿になれてた?
思い描いていた自分には、全くなれてなかったですね。
───それはなぜ?
そもそも当時、スロープスタイルとビッグエア種目は、オリンピック種目になっていなかったこともあり、競技者としてのキャリアがぼんやりしてました。それでも、世界大会に出たい気持ちはずっとあって、BURTON US OPENやワールドカップを目標にしていましたけど、高校を卒業後を考えるタイミングが来ました。そこで大学へ進学するかどうかにすごく迷いました。「スノーボードを職業にするとはどういうことなんだろうか」ということを考えていましたね。
ただちょうどその頃、スノーボード・スロープスタイルがオリンピックに競技として採用されることが決定したんです。それもあって、最終的に大学には行かず、オリンピックを目指して活動していくことに決めました。ゴールは「世界中で活躍して、それで生計を立てながら旅をしよう」なんて考えていたんですが、怪我が多く思ったように活動できなかったのもあり、振り切って動けてなかったように思います。
───外から見てると競技者として十分振り切った動きに見えていたよ
たしかにTOYOTA BIG AIRやTHE SLOPEでは日本人の中では上位の方にいましたけど、当時、(角野)友基や弟(稲村奎太)が上手くて、自分は3番手くらいの感覚で、冷静にその2人と実力を比べた時にちょっと届かないなっていうのを感じていました。なので、競技をずっと続けるのは難しいかもしれないということは常に頭にあって、続けていく上でそこの葛藤はありましたね。
じゃあ「全く怪我をせずに、もっと努力できていたらなにか変わったのか」って言われたら、振り返ると無駄な動きも多かったと思います。競技者人生に若干の悔いは残っていますが、人生において全て納得できることなんて少ないと思いますし、この経験を次に活かしていこうと前向きに考えていました。
───それくらいのキャリアがあれば、映像で活躍しようみたいな気持ちにはならなかった?
めっちゃありました。やりたいと思っていたけど、自分が映像の世界で活躍しているところのイメージがあまり湧いてこなかったというのと「自分じゃなくてもいいよな」っていう気持ちがありました。競技者としての人生を終えたあとに映像をやるというのは、王道の流れだと思っていたりもしたので、自分は違うことをしようと決めました。
じゃあ次なにをやろうかって考えた時、自分の強みを活かせるところでやっていこうとは思っていました。ただ「スノーボードに関わる仕事でなければならいない」とかは一切思ってなくて、次は単純に社会に出ていろんな物事を知りたいという気持ちでしたね。それが22歳くらいの時です。
後編「たつきの仕事編」に続く
プロフィール
稲村 樹(いなむら たつき)
愛知県出身、1995年生まれ。競技シーンで卓越したスキルを武器に活躍した後、プロスノーボーダーとイベントオーガナイザーとして業界に貢献している。
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・サロモンスノーボード
・ムラサキスポーツ
───本人の反省が多い前編だったが、稲村樹の輝かしいキャリアはちゃんと記しておこう
大会成績
2016年
- FIS 全日本選手権 スロープスタイル: 4位
- SAJ 尾瀬戸倉カップ ビッグエアー: 2位
- US Grand Prix Fenway Park ビッグエアー: 15位
- Jamboree FIS World Cup ビッグエアー: 20位
2015年
- FIS WORLD SNOWBOARD CHAMPIONSHIPS: 14位
2014年
- コレクションジャム: 優勝
- アドバンスカップ 2014: 3位
- FIS SLOPE STYLE 尾瀬戸倉 第2戦: 4位
- FIS SLOPE STYLE 尾瀬戸倉 第1戦: 3位
- THE SLOPE: 3位
- TOYOTA BIG AIR: 12位