「自分に特別な才能はない。」
それは十分に理解した上でスノーボードを続けてきた。今でもダブルコークくらいはできるんじゃないかって、ふと思うことはあるが、挑戦する土俵にすら立ててなくて、やっぱり自分に非凡な才能はないなって思う。でもスノーボードが大好きだし、自分の可能性を信じる姿勢はずっと貫いてきた。
スノーボードが他のスポーツと違っていいところは「個性を磨き続けることで目立てる」というところだ。他人と比べる必要はない。だから、自分にできること・強みを考え直した。
大学卒業してから数年経つと同じ目線だったスノーボードの仲間はかなり減っていて、見渡すと自分が数少ない生き残りになっていた。そこで気づいた。
自分の強みは"しぶとく、諦めずに続けること"
それだけしかなかったけど、やり続けていれば、いつか何かを起こせる気が少しあった。
大会で優勝した話の前に、そこに行き着くまでの話を聞いて欲しい。
スノーボードと向き合い続けた14年間
17歳か18歳の頃、たまたま深夜にテレビをつけたらX-TRAIL JAM TOKYOドーム(東京ドームでやっていたジャンプの伝説の大会)のダイジェストがやっていた。テレビに映し出されたスノーボーダーたちのジャンプを見て、漠然と「あんな風になりたい」と思った。
その気持ちを強く心に秘めて、大学生になった。
スノーボードに大学生活の4年間をほぼ捧げて、たくさん仲間ができた。「これで諦めるから」とわがままを言って4年生の時にアメリカのコロラドに行ったり、時間とお金がある限りオフトレも取り組んだ。でも、目標としていたプロスノーボーダーにはなれなかった。
就職した。社会人1年目。周りはちゃんと企業人になっていった。華金とやらを楽しんで、土曜の昼頃に目覚め、日曜日の夕方になると月曜に向けて整えはじめる。そんな雰囲気に何度も飲まれそうになったが「あんな風になりたい」と思った高校生の頃の気持ちは消えなかった。
勢いで会社を辞めようと思った。「マイナーな国で活躍して、逆輸入でプロスノーボーダーになる」という論理の欠片もないバイブスだけの計画を実行するためだ。それを実践しようと思っていた矢先、シーズンに両手首を骨折。新卒のくせに有給を使い果たして、入院で欠勤になった。とくに親からは「会社に迷惑をかけるな」と怒られた。でも会社には「おれ、海外でプロスノーボーダーなります」って大口叩いて、辞めるって言ってたから完全に八方塞がりな状態になった。この時、なにをしたらいいかマジで分からなさすぎて坊主にした。そんなどうしようもない状態のおれを応援してくれた友人がいた。「海外で困ったら、これ売ってなんとかしろ」って30万くらいする時計をおれに預けてくれた。
「これは、もう日本でウダウダやってたらあかん。」
思いつきで行ったノルウェー
ノルウェーに行った。身よりもなにもなかったけど、出会い、あらゆる運というか巡り合わせが自分に味方してなんとか生活ができた。振り返ればスノーボードの技術は大したことなかったが、行動力だけはあった。でも行動力だけでは状況を変えられない。逆輸入で日本に名を馳せるはずだったのに技術が足りない。ストーレサンドベックやトルガーバーグレム、テリエやトースタインも目の前にいたけど、"バイブスだけの日本人"以上のインパクトを残せなかった。
時が経てば近づいてくる帰国の時間。「石にかじりついてでもなんとかしてやる」って気持ちで頑張ってきたけど、それ以外は何もなさすぎて絶望した。このままスノーボードから遠ざかろうかと本気で思った。
でも、そんな状況を変えたのは過去の自分の行動だった。おもしろそうなところに行く、かっこいい人に会うという行動をやめなかったおかげで、BONXの創業者の宮坂さんとノルウェーで滑る機会があった。
話せばはなすほど、宮坂さんのキャリアとバイブスがかっこよくて憧れた。自分がお手本にすべきライフモデルだと思った。帰国して、「バイトでもなんでもいいからジョインさせて欲しい」ってお願いして、拠点を東京に移した。
スノーボードと社会人生活の両立を目指して
偶然にも職場がスノーヴァ溝の口から電車で30分くらいの場所にあった。だから、会社の帰りにスノーヴァ溝の口に行ける場所に家を借りた。
「この環境ならまだスノーボーダーとして成長できるかもしれない」
生活するお金はほんとにギリギリだったけど、良くも悪くもスノーヴァで練習することに集中できた。週6-7日で滑ってたときもあった。
ノルウェーから帰国して、終わりかけていたモチベーションも戻った。スノーボードが毎日できる環境を維持できるとは思っていなかったから幸せだった。とにかく滑った。ほんとにできるだけ滑った。BONXにいる間は仕事としても雪山に携わることができて、趣味でやってるだけでは見れないような景色をたくさん見させてもらった。
新型コロナウイルスが流行りだした。徐々に変わっていく生活様式。そんな折、スノーヴァ溝口が閉業。遊び場と練習場を失った。この時28歳。
「さすがにもうスノーボードはいいんじゃない?」そんな言葉も耳に入る。でもまだ火が消えてなかった。
「まだやり残している気がする」
コンペの優勝とか映像作品を出すとか解像度の高い具体的なイメージはなかったが、感覚的にまだ何かが足りていなかった。
がむしゃらに現場に立ち続けるというポリシー
日本に帰ってきてからは、出場できる大会やイベントに日程が合う限り全てエントリーしていた。「スノーボードに費やしてきた時間は無駄じゃない」と周りの人間を認めさせるには結果しかなかった。でも大きなリザルトはなにも残せなかった。
この時29歳、スノーボード歴12年。普通なら引き際も見えてくる歳だけど、引かなかった。
本格的に新型コロナウイルスが流行り、世の中が大きく変わった。
このタイミングで自分の働き方も変わり、会社員として働きながらスノーボードに全力投球できる環境を仲間と創ることができた。振り返ってみれば学生時代以上に滑ることができていた。
30歳にして、シーズンの滑走日数が100日に迫る。おかげで身体の状態も仕上がっていった。
相変わらず、ジャンルを選ばずに色んな大会やイベントに可能な限り参加することを続けていた。
「言い訳並べて現場に立てなくなったら終わり」そう言い聞かせて自分を奮い立たせた。だって明らかに勝ち目のない状況だらけだったし、そんなことはプレーしてる自分が一番分かってた。でも、「やってみねえとわからねえだろ」って気持ちはどこか常にあった。自分が自分を諦めたら終わりだし。
そうやっていろんなことやってるうちに「フリーライド」というフォーマットの大会に行き着いた。
フリーライドでの成功体験と大怪我
2021-22シーズン、初出場のFreeride MAIKOで準優勝。ちゃんとした格がある大会で表彰台に上がったことがなかったから、この準優勝でさえ10年分以上くらいの価値を感じていた。続けてきてよかったなって。
同年、安比で行われたFreeride APPIでも準優勝を果たし、ポイント上位者しか出場できない、Freeride HAKUBAのワイルドカード枠を獲得して、初年度ながら4戦全てに出場することが叶った。
これは自分にとって大きな成功体験だった。
ついに、自分がこれまでやってきたスノーボードがまるっと活きるフォーマットを見つけたのだ。ここから自分のスノーボードの軸は『フリーライド』に移った。
「来年こそは・・悲願の優勝を・・」
そんな矢先、ダブルバックフリップに挑戦して失敗し、シーズン終盤に後遺症が残ってもおかしくないような大怪我を負う。
『腰椎破裂骨折』
圧迫骨折を越えて、そういう診断になっていた。マジで運良く神経を傷つけなかったが本当に危なかった。全治4ヶ月以上、その後の後遺症の可能性もあり精神的にもポジティブになれる状態ではなかった。
しかし、徐々に身体を動かすことで、自分の身体を思ったように動かすという感覚を同年9月頃にはほぼ取り戻した。割愛するが、地道に体作りをやっていた。
ただ恐怖心だけはずっと消えなかった。もう一回食らったら終わるし、ミスらない保証なんてない。むしろやられる可能性の方が高い。
そのまま怪我明けの2022-23シーズンが始まったが、明らかに動きが違う。というかマインドが全くついてこなかった。もう一回、自分らしくスタイルを出せるイメージが全然湧かなかった。だけど、気にしないフリをして滑り続けた。それしかなかった。そのおかげで体力面が戻った。メンタルは徐々に戻ることを信じた。
勝負すると決意していたシーズン
滋賀の実家に帰る、帰らない的な話もあったから、もしかしたら挑戦できるラストシーズンになるかもしれない可能性があった。だから是が非でも結果が欲しい。
そんな中迎えた、2022-23シーズン初戦のFreeride MAIKO。悪天候。視界不良。攻めるか悩んだ。
「1位は恐らく取れないけど、3位以内には入れる」そういう滑りをした。結果、3位。
狙い通りだった。攻めすぎず、自分の感情をうまくコントロールできた。
2戦目、Freeride HAKUBA。
見たことないスケールでの大会。振り返ると、俺にとってはあの斜面を1本滑れただけでも財産だ。
ライディングは、無理して飛んで転倒。選んだラインに自信はあった。「あのままマニューバーを描きながら気持ちよく滑れてたらどんな順位になってかなあ」って思うけど勝負にたらればはない。自制心が足りていなかった。
最終、3戦目はFreeride ARAI。
数日間、降雪がなく、気温の上昇もありボッコボコの不整地バトル。
「自制心が大事」
2戦目の白馬の反省を活かして、コケないラインで・・キレイに滑らないと・・・。なんてずっと考えてた。
フェイスチェックでチラッと見かけた、リップが上がり目の飛べそうな尾根のイメージが頭から離れない。そこでのバックフリップのイメージはなんとなくある。
だからフェイスチェック中に、別の地形で練習がてらバックフリップしてみた。そしたら見事に特大オーバーして背中から落下した。見事なオーバースピンで自分でも笑えた。でもそれのおかげで緊張が解けてリラックスできた。
「あそこ、ぶっ飛んでバックフリップ立ったらかっけえよなあ」
直前でやられたから「今日はやめとこう」って普通ならなると思うけど逆に火が着いた。ハイリスク・ハイリターン。でもこのままやってても何も変わらへんやん。
「これ、今シーズン最終戦だぞ?勝負するなら今しかないだろ。」スタート直前にはもうやる気になっていた。
「ここでカマして表彰台に立つ」そういう気持ちで滑った。
リップを飛び出してすぐ、空中でノーズが木に当たってたけど、ドンピシャで立った。着地後は明らかに制御不能なくらい加速してたけど「ここでコケたらマジで一生後悔する」と思って死ぬ気で踏ん張った。バックフリップの後、落ち着いて自分のラインを探せたのは、この2年の大会経験のおかげだったと思う。
ただフィニッシュした後は、もう何も考えたくなかった。
なぜかというと、自分では手応えを感じても結果が伴わないことが人生で大半だったから。これで表彰台に引っかからなかったら、それこそ自信を失うし、正直立ち直れない。だから「あわよくば3位くらいだろう」と思って、その後の選手のランは見ずに、結果発表までスノースケートしながら気を紛らわせた。
表彰式。2位まで発表があったが自分の名前はまだ呼ばれていない。さすがにこの時は「1位あるんじゃないか」って思った。
自分の名前が呼ばれた時は、心の底から嬉しかった。人生で一番嬉しい瞬間だったのは間違いない。
まあでも俺って無名なので、1位で表彰台に呼ばれたけど「誰?」てきな雰囲気は感じていた。
「あんなの偶然の一発だろ」「滑り自体は全然普通じゃね?」
そんな声が聞こえてきてもおかしくないし、実際あったんじゃないかと思う。全然それでいい。
でも、あの日、あの瞬間、あの場と状況においては自分が一番ギャンブルやってた。それをたまたま成功させただけに過ぎないかもしれないけど、そのギャンブルの成功確率を上げるために14年間、滑り続けてきたんやから1回くらい勝たせてくれてもええやんって思ってる。
だから今年のFreeride ARAIの優勝は14年間諦めなかったやつへのご褒美でしかなくて、再現性のなさは普通に自覚がある。
良い雪であればあるほど実力者は良い滑りをするから勝ち目がないし、グダグダのコンディションで泥試合になりそうな時しか優勝するチャンスはないと思ってた。だからコンディションも自分にとってはドンピシャだった。全ての条件がたまたま噛み合って、引き寄せただけ。
もちろん、この結果で生活が変わるわけでもないし、スポンサーがつくわけでもない。
でも優勝した後は自分が「スノーボーダー」だって胸を張れるようになれた。これだけで十分。
あらためて振り返ってみても、優勝ってほんとに最高だった。はじめてスノーボードで賞金ももらったし。夢見心地でアドレナリン出すぎて、その後サウナ行ったけど全く暑さ感じなかったもんな。目がバキバキ過ぎて寝るのに苦労した。逆に精神的におかしくなりそうだった笑。
というわけで、せっかくフリーライドで優勝したのに誰も取り上げてくれないから自分で自分の記事を書いた。
最後に・・・
何かを諦めずに続けている人へ。
続けていればマジで絶対にいいことあるから、自分が納得するまでは辞めずに続けてみてほしい。形や取り組み方、関わり方はどうであれ、しぶとく諦めずに続ける。キレイ事かもしれないけど凡人にはそれしかないと思う。
自分はその先に最高の景色が待ってた。結果が過程を全て正当化してくれる瞬間は必ず来る。
実は、ノルウェーで滑ってたときも誰かの背中を押したくてブログを書いてた。でもその時は何の実績もなくて、鼻たれ小僧の戯言だったけど、やっと結果が出たから今の自分の文章なら誰かの背中を押せそうな気は少ししている。似たような境遇でもがいている人もいるだろう。この記事を読んで何かしら感情が揺さぶられたなら、SNSでシェアしていただけると自分としては一番嬉しい。今後も滑り続ける所存だ。
個人的に好きな話
ちょうど俺と同じ時期に33歳でMLB(メジャーリーグ)にデビューしたバッターの話が目に入った。彼はMLBのカテゴリが1つ下のマイナーリーグでメジャー昇格を夢見て、13年間、1,100試合に出場し続けた。そして、33歳になった今年、ようやくチャンスが巡ってきたらしい。この1日だけしかMLBでプレーできなかったそうだが「夢が叶って嬉しい」とコメントしていた。その姿を自分と重ねてしまってすごく共感した。やっぱり、諦めなけりゃいいことあると思う。